万国航海図

番号 299
名前 万国航海図
読み ばんこくこうかいず
サイズ(cm) 156.0 x 90.2
彩色 木版 手彩色
作者 武田簡吾
版元 エドワード・スネル
作成日(和暦) 安政5年(1858)図の文久2年板図
作成日(西暦) 1862年
地域 世界
解説 江戸時代の後期、18世紀末から19世紀中頃にかけて、日本人が作成する世界地図は大きく前進進歩する。それはヨーロッパ諸国のアジア進出という時代の流れと軌を一にする。つまり、18世紀末期のロシアの南下政策に対して北海道の海岸線を実測調査するために伊能忠敬が向い(1800年)、幕府天文方高橋景保は当時世界最高水準の世界地図「新訂万国全図」(1810年)を作りあげた。また、イギリスとのアヘン戦争(1840~42年)で中国が敗北したが、幕府上層部や知識人層は強い危機感を持ち、世界地理学の必要性をいっそう強く感じた。そしてペリー来航(1853年)によって、世界地図や地理書が数多く出版され、庶民層にいたるまでその関心は広がるのである。江戸時代の地図は折りたたむとコンパクトになり、表紙にあたる部分が出てくる。通常はそこに地図のタイトルが記されている。この世界地図の表紙には「萬国航海図 千八百六十二年第二月新鐫 和蘭エ、ス子ル校正」とあり、また図の右側三枠の一番下には英文で「A Map of the World in Japanese by Ed.Schnell Yokohama Feburary 1862」とある。つまり、そのまま読めばオランダ人のエドワード・スネルが1862年に新たに刊行した世界地図ということである。スネルは幕末開港期の横浜に滞在した、武器はじめ諸品を扱う貿易商であった。横浜の外国人商人を紹介した「横浜はなし」や「よこはまみやげ」(1863年)といった書物にもスネルの名前が出ており、文久2年(1862)頃には横浜に確かにいたことが判る。 しかし、本図はそのスネル自身が新たに作り出した世界地図ではなく、武田簡吾が安政5年(1858)に作成したメルカトル図法による大型木版世界地図「輿地航海図」を、4年後の文久二年に海賊版として出したものなのである。スネルの出した海賊版は少なくとも三種類が確認されているが、新たに版木を彫り起こして作ったにしては微細な点まで一致しており、版木自体を入手して、図の右側の凡例部分など、一部を訂正したものと思われる。図中にはクック隊はじめ主要探検航海の航路や年代を記し、左上の四角枠には閣龍氏(コロンブス)の明応元年(1492)以降4回の航海など年表風に並べている。また、右上の表にはイギリスロンドンから北京など主要都市への海上里数が列挙されている。これらの付表も当然に「輿地航海図」に存しているものである。
要約  表紙に記載されている情報や、また図の右側の英文を読むと、オランダ人エドワード・スネルが文久2年(1862)に横浜で新たに刊行した世界地図ということになる。しかし、本図はスネル自身の新作世界地図ではなく、武田簡吾が安政5年(1858)に作成したメルカトル図法による大型木版世界地図「輿地航海図」を、4年後の文久二年に出した海賊版なのである。図中にはクック隊はじめ主要探検航海の航路や年代を記し、左上の四角枠にはコロンブスの航海などを並べている。また、右上の表にはイギリスロンドンから北京など主要都市への海上里数が列挙されている。
キーワード ペリー来航、エドワード・スネル、輿地航海図
参照 織田武雄・室賀信夫・海野一隆編『日本古地図大成 世界図編』講談社(1975年)。開国百年記念文化事業会編『鎖国時代 日本人の海外知識』原書房(1978年)。三好唯義・小野田一幸編『図説 世界古地図コレクション』河出書房新社(1999年)。

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