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伊能忠敬は、49歳で隠居後、50歳のとき江戸に出て、幕府天文方高橋至時に師事し、暦学・天文を修めます。この勉強中に緯度1度の距離が暦学上の問題となっているのを知り、蝦夷地への測量をはじめとして、1800年から1816年まで、日本初の実測による全国測量を実施しました。そして忠敬の没後、1821年に幕府天文方の手で「大日本沿海輿地全図」として完成されました。忠敬の測量事業は、当初は個人事業として始められましたが、途中で将軍・徳川家斉の上覧を受けるなど幕府に認められ、約80%は幕府事業として遂行されました。このように、忠敬は近代的な日本地図作成の先駆者といえます。
忠敬が作成した日本地図は、総称して「伊能図」と言われ、大きく分類すると「大図」(1/36,000:214枚)、「中図」(1/216,000:8枚)、「小図」(1/432,000:3枚)とその他の図となります。このうち、大図は実測図で、これを縮小して中図、小図が作られました。大図作成のための測量は、方位と距離を野帳に記録しながら沿岸や街道を進行する方法で行われました。また、最終の大図1枚の大きさはほぼ畳1枚ほどあり、日本列島を214枚でカバーする膨大なものでした。しかし、幕府提出図は、明治6年の皇居炎上の際に焼失し、東京帝国大学に提出・保管されていた伊能家控図についても、大正12年の関東大震災で焼失しました。 現存する大図は、大名家にあった部分的な写図と明治初期に模写された写図等60枚程度しか分かっていませんでした。
伊能忠敬の測量成果に基づく「大日本沿海輿地全図」の大図(縮尺3万6千分1)は、214枚で日本全国をカバーすることが知られています。これまで国内で存在が知られている枚数はその内わずか60数枚でしたが、去る2001年3月、米国議会図書館でこの未確認分148枚を含む207枚(内169枚が彩色なし)が発見されました。なお、この伊能大図(米国)は、国土地理院の前身である参謀本部陸地測量部の輯製(しゅうせい)20万分1図作成のための骨格的基図として模写されたものと考えられています。
国土地理院では、「伊能大図(米国)」の貴重な地理史料としての重要性を考え、このデジタルデータによる保存と、手彩色による「彩色図」の作成を行うなど、広く一般に公開・展示する事業に取り組んでいます。また、平成16年度に国土地理院が中心となって行った「アメリカ伊能大図里帰りフロア展」の開催途中に、伊能大図(米国)では欠図だった4面の複写図が海上保安庁海洋情報部で発見され、国土地理院ではこの4面の彩色復元作業も行いました。
この彩色図(復元図)の作成方法は次のとおりです。米国議会図書館からデジタルデータ(207枚)を入手し、このうち山景、海面などに彩色のないものなど175枚について、伊能忠敬から7代目の洋画家・伊能洋(いのうひろし)氏の監修により、若手日本画家の手彩色により復元しました。手彩色にあたっては、山川、海面や沿道風景など絵画的な部分を中心に、現存する国内の図を参考に伊能図の華麗、精細なイメージを再現するように努めました。
この彩色図(復元図)の作成方法は次のとおりです。海洋情報部から原図を借用してデジタルデータ(4枚)を作成し、約40cm×70cmに縮小されていた図を原寸大(1/36,000)に拡大、伊能図が描かれた時代には存在しないと思われる航路や境界線などを削除後、山景等を加筆し、伊能大図(米国)彩色図と同じように、洋画家・伊能洋(いのうひろし)氏の監修により手彩色により復元しました。