蝦夷松前凡図

番号 142
名前 蝦夷松前凡図
読み えぞまつまえおおよそのず
サイズ(cm) 50.1 x 24.4
彩色 手書 手彩色
作者 厳卿 仮写
版元 (項目なし)
作成日(和暦) 文政13年(甲寅ノ晩夏)
作成日(西暦) 1830年
地域 北海道・樺太(サハリン)・千島(クリル)列島・アムール川河口
解説 端書きに「甲寅ノ晩夏 巌卿 仮写」とある本図には、内題に「蝦夷松前凡図」とあるが、林子平が『三国通覧図説』の付図として紹介した「蝦夷国全図」(天明5年、須原屋市兵衛梓、木版色刷)の略図の一種とみられる。林子平の「蝦夷国全図」は、日本・中国・オランダの資料にもとづく当時としては画期的な北方図であった。ただし、「カラフト島」は山脈に隔てられた大陸の半島とされ、これとは別に「サガリイン」(北樺太)を島として描き加えているのが特徴である。本図は、海路は朱筋で描かれているが、あとは手書き墨書の粗いスケッチ図となっている。クナシリ島、エトロフ島、サカリイン島などの形状は多少異なるものの、「カラフト島」を大陸の半島部として描き、アムール川(黒竜江)を「大河ナリ 一名サカリイン 一名エルミ(アルミ)川」(括弧内は「蝦夷国全図」の記述、以下同じ)としている点、「サカリイン」島(北樺太)を「北海ノ大国ナリ」とし、蝦夷地内の「此処二十五里石山道(此間二十五里ノ山道アリ)」あるいは「是より日本舩不通(不行)」という表記、海路の海里表記などは、「蝦夷国全図」と記述内容がほぼ合致する。他方、本図中には「箱館御陣屋」が表記されている。「箱館御陣屋」は、幕府が寛永11年(1799)に東蝦夷地を直轄領とした際に、蝦夷地警衛のために津軽藩と南部藩が箱館に設置した本陣を指す。当然ながら、この陣屋は林子平の蝦夷図には登場しない。またエトロフ島について、林子平の北方図には「近年エゾ人オロシヤ人此処ニ於テ交易ヲ始メシ由ナリ」とあるが、本図では「日本御陣屋アリ 東エソノ内ナリ」とあり、カラフト島にも「西エソ 日本人番所アリ」と記されている。文化5年(1808)には、対ロシア南下政策に対して仙台藩士が択捉(えとろふ)島に、会津藩士が北蝦夷(樺太)に派遣されている。このような点から、本図は林子平の北方図をベースとしながらも、その後の第一次幕府直轄時期(19世紀前半)の情報を書き加えている。ただし、「甲寅」年は寛政6年(1794)か安政元年(1854)にあたり、時期的には合致しない。それゆえ本図は、19世紀初頭に林子平の北方図をベースに描かれていた蝦夷図を、さらに写して作成した可能性もある。
要約 本図は、林子平が『三国通覧図説』の中で紹介した「蝦夷国全図」(天明5年)の略図の一枚。「カラフト島」を大陸の半島部として描き、アムール川(黒竜江)についての注記や、「サカリイン」島(北樺太)の記載、さらには図中の注記や海里表記などは、「蝦夷国全図」とほぼ一致する。内容的には18世紀末~19世紀初頭のものであるが、文政13年(1830)頃に写された可能性もある。
キーワード 林子平、三国通覧図説、蝦夷国全図、サカリイン、箱館御陣屋
参照 秋月俊幸『日本北辺の探検と地図の歴史』北海道図書刊行会(1999年)。梅木通徳『蝦夷古地図物語』北海道新聞社(1974年)。高木崇世芝『北海道の古地図 』五稜郭タワー(2000年)。高倉新一郎『北海道古地図集成』北海道出版企画センター(1987年)。長岡正利「国土地理院所蔵地図史料展観ⅩⅩⅩⅩⅥ 蝦夷松前凡圖」国土地理院広報、第368号(1999年)。船越昭生『北方図の歴史』講談社(1976年)。

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