石狩国厚田郡図

番号 143
名前 石狩国厚田郡図
読み いしかりのくにあつたぐんず
サイズ(cm) 55.5 x 39.5
彩色 手書 手彩色
作者 (項目なし)
版元 (項目なし)
作成日(和暦) (項目なし)
作成日(西暦) (項目なし)
地域 北海道厚田郡
解説 本絵図の題表紙(紫色)の題簽に「石狩国厚田郡図」とあるが、これは後から付けられた仮題で、本来はアツタ場所を描いた絵図の手書き略図写とみられる。場所図は一般に海側から描かれるが、本図もそうした構図をとっている。「場所」とは本来、アイヌと和人との交易場(商場)を指し、アツタ(厚田)に場所が設置されたのは、元禄19年(1706)のことである。文化4年(1807)には西蝦夷地が幕府直轄領(第一次)となったが、文政元年(1821)に松前藩領に復領し、蝦夷地は安政2年(1855)に再び幕府直轄領(第二次)となった。幕末期には幕府によって会所・勤番所が設けられたり、和人商人がニシン漁に進出して運上屋や番屋を設け、多くの和人漁民が出稼ぎに来ていた。ニシンの北上とともに松前、江差方面の漁夫も北上し、松浦武四郎の「西蝦夷日記」(嘉永3年(1850))オショロコツ(押琴)の項によれば、和人は1万人もいたとされる。本図の中央、「本陳(本陣、陣屋)」が置かれた「押琴村」の泊は、弁財船(千石船)が30隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭(古潭村)、押琴一帯はニシン漁で大変なにぎわいを見せたといわれている。本図には押琴村・古潭村の他に、村名が朱字で記載された聚富村、知狩村、蒙来村、嶺泊村、殖尻村、青島村、経柄村、鳰泊村、古丹村、山下村、別狩村、厚田村、幌内村、本平村、鞆別村、安瀬村(満内)の、合わせて18ヶ村が確認できる。中央には「厚田郡出張所」や「本陳(本陣)」がみえる。河川と海岸線が淡い藍色で着色され、海岸縁の陸路が朱色の点線で描かれている。また、付箋が、山側に5ヶ所(「此辺嶺堺以下同 ホロアリエハ」「エヤニアソエハ」「クツウシノホレ」「ホロノホレ」「シヤウシ」)、浜側に4ヶ所(「隠レ岩洲アリ」「山道嶮路也」「此辺出曲巌あり」「赤巌 崎嶋也」)確認できる。
要約 近世後期のアツタ場所を描いた絵図の手書き略図写。「場所」とは本来、アイヌと和人との交易場(商場)を指す。本図の中央、本陣が置かれた「押琴村」の泊は、弁財船(千石船)が30隻も停泊できる良港で運上屋も建てられ、古潭(古潭村)、押琴一帯はニシン漁で賑わった。図中には沿岸部に18ヶ村が確認でき、山側に5ヶ所、浜側4ヶ所に付箋が確認できる。
キーワード アツタ場所、本陣、運上屋、押琴村
参照 石狩市厚田支所HP。

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