資料名・キーワードで探す
番号 | 171 |
---|---|
名前 | 韃靼図 |
読み | だったんず |
サイズ(cm) | 57.0 x 48.3 |
彩色 | 銅版 手彩色 |
作者 | ド・ウィット |
版元 | アムステルダム版 |
作成日(和暦) | (項目なし) |
作成日(西暦) | 1676年頃 |
地域 | アジア大陸北東部 |
解説 | アジア大陸北東部の地図だが、北極圏付近のアジア大陸北部の海岸線が描かれている。ヨーロッパから北極回りでアジアに行く航路が存在すると信じられていたためである。また、日本列島北部の北海道と千島列島南部の島々が描かれていることが注目される。1643年、オランダ東インド会社のフリース艦隊は、日本の東海上に存在するといわれていた「金銀島」を発見するため、日本列島の東側海上を北上し、北海道東部と国後島まで達し、その周辺海域を調査した。その探検航海の結果としては、ヨーロッパにおいて、実際の調査に基づいて作成された北海道地図を初めてもたらしたのである。本図は、その成果を取り入れたものである。フリース艦隊は北海道(地図上ではYEDSOと書かれる)東部と国後島の間の根室海峡を確認できず、その島を北海道の一部として描いている。そして、その東側に択捉島、さらに東にウルップ島の一部が地図の端に描かれている。北海道自体は大陸の一部であるのか、大陸からつながる半島であるかは18世紀になっても判然とせず、地図上にさまざまな姿で描かれる。結果的には19世紀になって、シーボルトが間宮林蔵の探検や伊能忠敬の地図を紹介することによって解決をみる。ド・ウィットはアムステルダムの地図メーカーで、ライバルであるブラウ家から原版を買い取り、17世紀後半に活躍した。日本列島は、17世紀前半のカルディム図を踏襲しており、整った姿をしている。また、朝鮮半島も半島として正しく表現されている。このような姿はヨーロッパにおいては17世紀後半~18世紀にかけて一般的となるが、本図はその最も進んだ東アジア地域像を表現しているといえる。 |
要約 | アジア大陸北東部の地図だが、北極圏付近のアジア大陸北部の海岸線が描かれている。ヨーロッパから北極回りでアジアに行く航路が存在すると信じられていたためである。また、日本列島北部の北海道と千島列島南部の島々が描かれていることが注目される。1643年、オランダ東インド会社のフリース艦隊は、日本列島の東側海上を北上し、北海道東部と国後島まで達し、その周辺海域を調査した。その探検航海は、ヨーロッパにおいて、実際の調査に基づいて作成された北海道地図を初めてもたらしたのである。本図はその最も進んだ東アジア地域像を表現しているといえる。 |
キーワード | フリース艦隊、ウルップ島、間宮林蔵 |
参照 | 織田武雄『地図の歴史』講談社(1973年)。OAG・ドイツ東洋文化研究協会編『西洋人の描いた日本地図-ジパングからシーボルトまで-図録』OAG・ドイツ東洋文化研究協会(1993年)。 |