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番号 | 233 |
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名前 | 世界図 |
読み | せかいず |
サイズ(cm) | 72.5 x 53.5 |
彩色 | 銅版 手彩色 |
作者 | ド・リール |
版元 | フィリップ・ビュアシュ、パリ版 |
作成日(和暦) | (項目なし) |
作成日(西暦) | 1792年 |
地域 | 世界 |
解説 | 17世紀前半から中頃にかけて、オランダが地図制作の面で黄金期を迎える。しかしその繁栄の象徴ともいうべきブラウ家の工房が火災によって消滅するのと軌を一にして、17世紀後半、地図制作の中心は「太陽王ルイ14世」のフランスに移った。カッシーニ一族の三角測量による地形図作成や子午線一度間の距離計測などが歴史上に著名だが、ド・リールやダンヴィルによって資料批判に基づく世界地図作成なども忘れてはならない。ド・リール家では、カッシーニに天文学を学んだJ.ド・リール(1675~1726)と、四人の息子たちが地図の編集と出版に関わった。代表的な作品は1700年に描かれた両半球世界図だが、新しい資料を選択して正確を期しながら描き替え、再版を繰り返した。これまで世界図に比較して陸地の形状が格段に正確となり、ロシアのピョートル大帝も地図出版者として高く評価していた。彼らの地図は、親戚であり、なおかつ地図作成事業の後継者であるフィリップ・ビュアシュによって18世紀後半まで出版を見た。本図はその1792年版である。この時期の世界地図ではオーストラリア大陸も正確に描かれ、図上で残る不明地は日本列島の北方地域のみという段階であった。本図の当該部分を見ると、サハリン(樺太)は「く」の字型の姿をしており、なおかつ「I.De Saghalien」(サハリン島)と島と明記している。ただし、北海道の姿を見ても不正確であるように、この時期にはサハリンを島かどうか確定する確かな探検航海は行われていなかった。おそらく、中国の「皇輿全覧図」に描かれるサハリンの姿を取り入れたもので、19世紀初頭の間宮林蔵の探検まではヨーロッパにおいては解答が出なかった。 |
要約 | ド・リール家では、カッシーニに天文学を学んだ父親と四人の息子が、地図の編集と出版に関わった。彼らの地図は、親戚であり、なおかつ地図作成事業の後継者であるフィリップ・ビュアシュによって18世紀後半まで出版を見た。本図はその1792年版である。サハリン(樺太)は「く」の字型の姿をしており、なおかつ「I.De Saghalien」(サハリン島)と島と明記している。ただ、この時期にはサハリンを島かどうか確定する探検航海は行われていなかったので、おそらく、中国の「皇輿全覧図」に描かれるサハリンの姿を取り入れたものだろう。 |
キーワード | ド・リール、ビュアシュ、サハリン(樺太) |
参照 | 織田武雄『地図の歴史』講談社(1973年)。 |