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番号 | 265 |
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名前 | 函館弁天砲台之図亀田五稜郭之図 |
読み | はこだてべんてんほうだいのず かめだごりょうかくのず |
サイズ(cm) | 74.0 x 160.6 |
彩色 | 手書 手彩色 |
作者 | 齋藤直光 |
版元 | (項目なし) |
作成日(和暦) | 明治11年 |
作成日(西暦) | 1878年 |
地域 | 函館市 |
解説 | 軸装された本図の上段の図には「函館弁天砲台之図六百分の一/凡積壱万千三百八十七坪」、中段の図には「亀田五稜郭三分十間図全/但置砲一百二十九」、下段の図には「明治九年八月 陸軍十二等出仕金子一輔測量図写/五稜郭ノ図千分ノ一/積五萬三千九百拾五坪」との添え書きがあり、さらに左下には「明治十一年第四月廿四日写之/函館砲台出張中/木工生徒 齋藤直光」と奥書されている。詳細は不明であるが、明治9年(1876)に金子一輔によって作成された写図を、さらに斎藤直光が模写した図面ともみられる。いずれも、幕末期に函館に築造された西洋式の保塁を描いた平面図である。函館市立図書館には、原図とみられる「箱館弁天崎御台場絵図」(平面図)、それに竣工間もない頃の「五稜郭絵図」が残されている。弁天岬砲台と五稜郭はともに、幕末期における蝦夷地経営の中心であった箱館奉行(函館)が、防備強化を目的に築造したものである。設計は、箱館奉行設置の諸術調所教授に任命された元伊予大洲藩士の武田斐三郎が担当した。弁天岬砲台は安政3年(1856)に函館湾入口の弁天岬沖を埋め立てて着工され、文久3年(1863)に竣工した。堅固な石垣で囲まれた弁天岬砲台は、周囲390間余(約700m)の不規則な六面形をなし、60斤砲2座、24斤砲13座を備えた。五稜郭は亀田役所土塁の名で、箱館奉行の治所として箱館市街の北方に位置する鍛冶村(函館市内)において安政4年に着工され、元治元年(1864)に竣工し、中央に箱館奉行所(五稜郭庁舎)が置かれた。周囲約1900間(約3.4km)、内面積5万4122坪(約18万㎡)に及ぶ土塁・濠の形が五稜星形をなしたことから、「五稜郭」と呼ばれた。郭外にも五稜郭を包み込む形で大規模な方形囲郭(土塁)が設けられ、その内部には奉行所役人の「御役宅」や「同心長屋」が配された。 |
要約 | 明治11年(1878)に「木工生徒 齋藤直光」によって模写された「函館弁天砲台之図六百分の一」、「亀田五稜郭三分十間図全」、「五稜郭ノ図千分ノ一」の軸装図。原図は函館市立図書館等に残されている。文久3年(1863)に竣工した弁天岬砲台は不規則な六面形、元治元年(1864)に竣工した五稜郭は五稜星形をなす西洋式の保塁で、いずれも箱館奉行設置の諸術調所教授に任命された武田斐三郎が設計した。 |
キーワード | 斉藤直光、弁天砲台、箱館、五稜郭 |
参照 | 北海道庁編『新撰北海道史』北海道庁(1937年)。北海道庁編『新北海道史』北海道庁(1970年)。戸祭由美夫「幕末に建設された北海道の囲郭—五稜郭の囲郭プランのもつ意義の探求—」(足利健亮先生追悼論文集編纂委員会編『地図と歴史空間』大明堂、2000年)303~315頁。 |