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番号 | 284 |
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名前 | アジア図 |
読み | あじあず |
サイズ(cm) | 61.0 x 51.0 |
彩色 | 銅版 手彩色 |
作者 | J・B・ホーマン |
版元 | (項目なし) |
作成日(和暦) | 享保元年頃 |
作成日(西暦) | 1716年頃 |
地域 | アジア |
解説 | ドイツ人地図製作者ヨハン=バプティスト=ホーマンIoh. Bapt. HOMANによる地図。ホーマン商会はニュルンベルグで地図出版を開始し、それまで、メルカトルやオルテリウスに倣っていたドイツ地図業界を再興させた。当時鎖国をとっていた日本列島の形状については、各種の世界図において多様な形態のもとに描かれたが、その中の「ブランクス/モレイラ型」もしくは「ブリエ型」の形状を示すとされる。本州の北側には、松前(MATMANIKA Ins.)が独立島として描かれ、その周囲の小島の中には国後島(kanaschir I)やウルップ島(Urup I)もみえる。そして、その北側に、カムチャッカ半島(KAMTZADALIA)と一体化した蝦夷地(JEDSO)が描かれている。形態上ははカムチャッカ半島のようにもみえるが、半島の先端には千島列島を指すクリール地域(KURILLIORUM REGIO)の名も付されている。1746年に同じくホーマンが出版した「カスピ海及びカムチャッカ半島、蝦夷地図」でも、この点はまったく修正されていない。1643年に当地域を航海したオランダ人フリースの探検成果に拠って作成されたサンソンの「アジア図」(1669)でも、蝦夷地が北極海につながるような巨大な陸地として描かれており、当時のヨーロッパ人にとって日本北辺の知識は混乱していた。こうした状況がある程度解決されるのには、1787年のフランス人ラ・ペルーズや1804~05年のロシア人クルーゼンシュテルンによる探検を待たなければならなかった。なお、図の右下のパプアニューギニアは独立島としての全容がまだ判明していないが、その東側にみえる「NOVA BRITAM(N)IA」は、イギリス人W.ダンピアが1700年に到達したニューブリテン島である。またアジア北東の北極圏付近にみえる「氷の岬」も17世紀末から1720年代初めまで地図上にみられるものである。 |
要約 | ドイツ人ヨハン=バプティスト=ホーマンが1716年に作成したアジア地図。日本列島の描写は、「ブランクス/モレイラ型」もしくは「ブリエ型」の形状を示すとされる。本州の北側には、松前が独立島として描かれ、その周囲に国後島やウルップ島がみえる。さらに北側には、カムチャッカ半島と一体化した蝦夷地が描かれており、当時のヨーロッパ人にとって日本北辺の知識は混乱していた様子がうかがえる。 |
キーワード | J・B・ホーマン、ブランクス/モレイラ型、ブリエ型、蝦夷 |
参照 | OAG・ドイツ東洋文化研究協会編『西欧人が描いた日本地図-ジパングからシーボルトまで-図録』OAG・ドイツ東洋文化研究協会(1993年)。神奈川県立博物館『世界のかたち 日本のかたち—渡辺紳一郎古地図コレクションを中心に—図録』神奈川県立博物館(1997年)。R.V.トゥーリー・C.ブリッカー/矢守一彦(訳)『世界古地図』日本ブリタニカ(1981年)。九州大学総合研究博物館HP。 |