駿府名勝一覧図 全

番号 287
名前 駿府名勝一覧図 全
読み すんぷめいしょういちらんず ぜん
サイズ(cm) 90.6 x 69.6
彩色 木版 色刷
作者 (項目なし)
版元 大和屋喜兵衛
作成日(和暦) 慶応4年頃
作成日(西暦) 1868年頃
地域 静岡市
解説 駿府は静岡の前身で、駿河国国府の地である。江戸時代には東海道の宿駅名として府中とも呼ばれた。駿府は江戸時代初期から町として本格的に整備されるが、それは徳川家康の隠居地となったことと関連する。家康の死後は、徳川頼宣・忠長と入封するが、寛永9年(1632)に忠長が除封されて以後は、駿府城代の支配が幕末まで続いた。江戸時代の駿府は幕藩体制の上で、また東海道の交通上でも要衝の地であるが、刊行地図の観点からすると、城下町図としては「駿府独案内」(天保13年刊)と「駿府并近郊図」(慶応4年刊)ならびに本図という、3種の図が見られるのみである。本図の図中には刊行年は記されていない。しかし、本来はこの地図には包む袋が併存しており、そこに慶応4年の刊記がある。ここの作成年は、それに従っている。本図には図中に「江戸書物問屋大和屋喜兵衛」という版元の名前があるが、それが記されていない図もあり、慶応4年に出た図が何度か再版されたことが考えられる。駿府は本図に見られるように北西を上にして描かれるのが一般的で、それが城と城下町を最もバランスよく描くことになるのだろう。城下町の町割りは精密に描かれ侍屋敷や寺社、町屋など色分けされ、その合印が左下の四角枠内にある。そこに青色で「明屋敷」とあるのは、家が建っていない宅地地域のことだと考えられる。さらに「天ハ天台宗」といった、寺院の宗派が判るように漢字記号を記していることは、副図「久能山真景」とあわせて考えると、本図の作成者が寺社情報に重点を置いていることが想像できるのである。一方、城下町の周辺地域はデフォルメされ久能山や安部(安倍)川河口の海岸線まで含めているが、川の洪水に備えた堤防と水門が明示されていることは、地図として注目してよいだろう。図の下部には「札ノ辻ヨリ所々ヘ道法」として江戸や横浜までの里程が記され、城下町内の町や家、橋、寺社の数が書かれる。
要約 駿府は江戸時代初期から町として本格的に整備されるが、それは徳川家康の隠居地となったことと関連する。駿府は本図に見られるように北西を上にして描かれるのが一般的で、それが城と城下町を最もバランスよく描くことができるのだろう。城下町の町割りは精密に描かれ侍屋敷や寺社、町屋など色分けされ、その合印が左下の四角枠内にある。さらに「天ハ天台宗」といった、寺院の宗派が判るように漢字記号を記す。城下町の周辺地域はデフォルメされ久能山や安部(安倍)川河口の海岸線まで描いているが、川の洪水に備えた堤防と水門が明示されていることが注目される。
キーワード 徳川家康、久能山真景、堤防、水門
参照 栗田元次『日本古版地図集成』博多成象堂(1932年)。南波松太郎・室賀信夫・海野一隆編『日本の古地図』創元社(1969年)。

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