東叡山惣絵図 全

番号 32
名前 東叡山惣絵図 全
読み とうえいざんそうえず ぜん
サイズ(cm) 47.6 x 34.8
彩色 手書 手彩色
作者 (項目なし)
版元 (項目なし)
作成日(和暦) (項目なし)
作成日(西暦) (項目なし)
地域 東京 上野
解説 内題は「東叡山惣絵図」、東叡山寛永寺の伽藍配置を図示した絵図である。天台宗寛永寺は、徳川家の菩提所であった。寛永2年(1625)、徳川家光が僧天海に上野忍ヶ岡に造らせたものである。上野忍ヶ岡は江戸城の鬼門にあたり、京都御所と比叡山の関係にならっている。絵図中央に描かれている「中堂」とは根本中堂(こんぽんちゅうどう)のことであり、元禄11年(1698)に完成した。なお、中堂・文殊楼・大仏の他、門や各院の入り口と考えられる部分は朱に塗られている。藍色で表現される部分は土盛りであると考えられる。絵図中に記された36の院は、創建にあたって各大名より寄進されたものである。現在は絵図左下の「観善院」に南接する部分に徳川慶喜の墓があるが、絵図中には描かれていないこと、戊辰戦争時彰義隊の戦いで全山が焦土と化したことなどから、本図は元禄11年以降、明治元年(1868)以前の様子を描いたものと推察される。寛永寺は太平洋戦争で空襲を受け、戦後は寺域の大部分が上野公園となった。現在、東側に立ちならぶ院から北西に見える凸部の辺りまでJR各線が通っており、JR上野駅は「普門院」から「修禅院」の辺り、JR日暮里駅は北西の凸部より西側に位置する。また、現在の寛永寺は規模を縮小し、絵図北西の「大慈院」の辺りに位置し、「御本坊」の北側の施設は寛永寺霊園となっている。「御本坊」は国立博物館、「中堂」は上野公園の噴水の辺りに位置した。なお「蓮池」は不忍池である。
要約 天台宗東叡山寛永寺の伽藍配置に不忍池を加えた図。江戸時代の寛永寺を示している。絵図中に記された36の院は、創建にあたって各大名より寄進された。中堂・文殊楼・大仏の他、門や各院の入り口と考えられる部分を朱で表現し目立たせている。
キーワード 江戸、上野寛永寺、社寺境内図
参照 (項目なし)

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