御築地内図 全

番号 38
名前 御築地内図 全
読み おついじないず ぜん
サイズ(cm) 49.6 x 34.5
彩色 木版 色刷
作者 (項目なし)
版元 寿徳堂
作成日(和暦) 近世後期
作成日(西暦) (項目なし)
地域 京都市上京区(京都御所)
解説 現在の京都御所に当たる区域の詳細図で、内裏図(No.39「再刻 内裏図」参照)や禁中図とも総称される図の一種。この種の図で最古の寛文2年(1662)「禁中之御図」は、内裏御殿だけの配置を示す。指図すなわち設計図から作られ、御殿周辺の公家屋敷は含んでいない。前年の万治4年(1661)1月15日に京都御所が炎上したのを受け、翌年に御造営が成った時の木版手彩色図である。その後、延宝5年(1677)に林吉永が出板した「新改内裏之図御紋入」は、公家屋敷をも含めた点で新味を出した。以後、このパターンが定着し、本図もその延長線上にある。なお、寛文2年の造営は幕府の肝いりによっており、公武融和の象徴と言える。寛文2年図を出板した京都寺町・河野通清が同年、「新板武州江戸之図」も出している点は、文化面での京都の優位性を示すものであろう。以後も御所は、寛文13年(1673)、宝永5年(1708)など、たびたび焼失し、焼失後は御所と公卿町の配置が変化した。新しい内裏図の需要が起こったと思われ、初板・改訂板を併せて35種余が数えられる。その半数近くは、京都が尊皇攘夷運動の渦中にあった幕末に集中しているといい、政治策動にも内裏公家邸の所在図が求められたのかも知れない。幕末頃には公家の門の位置まで記したものもあって、公家邸に関する住宅地図の類いと言えよう。この図の刊年は不明ながら、描かれた内裏は寛政期(1790)のもので、やがて嘉永7年(1854)の「御所焼け」で焼失して以降に造営されたのが、現存の京都御所である。各辺のほぼ中央に、4方位が四方向き合いの形で記載されている。このうち「南」と記された辺の図郭外に「○印御摂家方、△御華族方」と凡例があり、発行元の寿徳堂の記載がある。それ以外に「町家」は赤く塗られるなど、色の塗り分けも認められる。上述した「華族方」について、明治2年(1869)に設定された華族制度と見なして、本図の作成をその直後、明治初期と推察する向きもあるが、直前の「摂家」と対をなして、公家の家格として五摂家に次ぐ、いわゆる清華家(せいがけ)を指すと考えるべきである。実際に図中に、従来からの七家に加え、2つの新家のうち「醍醐殿」に(凡例と違って)▲印が付されており(残る広幡殿は東辺欄外の「同堂上方御所附」の筆頭に挙げられている)、18世紀末以降の近世後期とするのが妥当であろう。
要約 現在の京都御所に当たる区域の詳細図で、内裏図や禁中図とも総称される図の一種。この図の刊年は不明ながら、描かれた内裏は寛政期(1790)のもので、やがて嘉永7年(1854)の「御所焼け」で焼失した以降に造営されたのが、現存の京都御所である。各辺のほぼ中央に、4方位が四方向き合いの形で記載されている。このうち「南」と記された辺の図郭外に「○印御摂家方、△印御華族方」と凡例があり、発行元の寿徳堂の記載がある。それ以外に「町家」は赤く塗られるなど、色の塗り分けも認められる。
キーワード 内裏、摂家、清華族
参照 新人物往来社編『江戸時代「古地図」総覧(別冊歴史読本・事典シリーズ・32)』新人物往来社(1997年)。日本地図選集刊行委員会・人文社編集部『日本地図選集8 京浪速畿内古地図撰 付近江・河絵図』人文社(1977年)。長岡正利「国土地理院所蔵地図史料展観ⅩⅩⅩⅤ 御築地内図 全」国土地理院広報、第367号(1999年)。山下和正『地図で読む江戸時代』柏書房(1998年)。

ページ上部へ