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番号 | 59 |
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名前 | 三河国輿地全図 |
読み | みかわのくによちぜんず |
サイズ(cm) | 62.2 x 47.4 |
彩色 | 木版 手彩色 |
作者 | 岡田啓 識 |
版元 | (項目なし) |
作成日(和暦) | 天保8年 |
作成日(西暦) | 1837年 |
地域 | 愛知県東部 |
解説 | 江戸時代の後期から末期、つまり19世紀前半から中頃にかけて国別の地図(現在の分県地図にあたる)が多数出版される。ただ、それらの先駆けともいうべき図が18世紀においてみられる。刊行された国図の中で最も古い刊年を記すものは宝永6年(1709)「河内国絵図」で、他の畿内諸国(大和、山城、和泉、摂津)やそれらの周辺である近江や播磨の国図が、18世紀において刊行を見る。三河国の図では、刊行年不記載ながらも18世紀前半の享保期頃の刊行と考えられる「懐玉 三河州地理図鑑」があり、その点で刊行国図の歴史において早い段階に刊行される国と位置づけることができる。三河国図で刊行年が記載されているものでは、本図の天保8年図が最も古い。この図は、図中に記される識語の文字方向から判断すれば、東北方向を上にした三河国(現愛知県東部)の刊行国図である。図の上に城下や村、道筋や郡界の黒線、神社などの記号が凡例としてあげられているが、図自体の大きさが小さいため、細かく書き入れられた村名のみが押し詰まっているように見える。識語を書いている岡田啓(1780~1860)は尾張藩士で、歴史と地理に詳しい国学者である。藩命により中尾義稲と共に「尾張志」を編纂した。識語には「風土記」や「和名類聚鈔」などに基づき、国号の起こりや国府、田数、郡名、郷名、神社などが記載されている。また、識語の後半では、国造国司の姓名や名所旧跡産物なども書きたいが小図なので省かなければならないこと、また新田開発や河川流路の付け替えなども行われているが「我他郷ノ人ナレバ(岡田啓は尾張藩士)」訂正することができない、といった識者本人の言も記している。言い訳めいた文句だが、岡田啓の学者としての良心が感じられる文章である。 |
要約 | この図は、図中に記される識語の文字方向からすれば、東北方向を上にした三河国(現愛知県東部)の刊行国図である。図の上に城下や村、道筋や郡界の黒線、神社などの記号が凡例としてあげられているが、図自体の大きさが小さいため、細かく書き入れられた村名のみが押し詰まっているように見える。識語を書いている岡田啓(1780~1860)は尾張藩士で、歴史と地理に詳しい国学者である。識語には、国号の起こりや国府、田数、郡名、郷名、神社などが記載されている。 |
キーワード | 刊行国図、岡田啓 |
参照 | 国絵図研究会編『国絵図の世界』柏書房(2005年)。三好唯義「近世刊行国絵図の書誌的検討」(葛川絵図研究会編『絵図のコスモロジー 上巻』地人書房、1988年)206-225頁。 |