肥前長崎海岸図

番号 87
名前 肥前長崎海岸図
読み ひぜんながさきかいがんず
サイズ(cm) 78.8 x 71.6
彩色 手書 手彩色
作者 柳 楢悦
版元 (項目なし)
作成日(和暦) 慶応2年
作成日(西暦) 1866年
地域 長崎市
解説 内題に「第二千四百十五号、西肥 長崎港之図」とあり、続いて「二万四千八百分一」という縮尺が記されている。長崎湾を中心に描き、西は「福田岬」近く、南は蚊焼(こうやき)(旧、三和町)までの海岸線を辿り、湾内に浮かぶ伊王島(伊王島町)・香焼(こうやぎ)島(香焼町)・高島(高島町)(以上、現在は全て長崎市)も描写し、縮尺も正確に記されていると見なされる。長崎の市街地が朱で着色されて目立つ形で描かれ、海岸線は青線で縁取られている。ただし、緑色が与えられた山並みは、所々に山名も記され特定できるが、どれも似た類型的な形の表現となっている。すなわち、海側から山稜線を辿る伝統的な手法を超越できていない。特に、図の主題である長崎湾の東端となる長崎半島を構成する「河原山、一千九百七十三尺」などの表現は、海岸線に近い山並みからは断絶しており、図の範囲を外側から規定する形になっている。一方、香焼島と高島との間と、伊王島の北方の海上には円形をなす方位盤が2ヶ所配されている。海の一面には漢数字が列状に記されており、深さの注記と考えられる。漢数字の羅列であり、単位が示されていない点は、No.51「伊勢国神宮海岸図」と同様である。さらに「第一 六月廿六日運用」、「第二 六月廿八日運用」、「第三 七月七日運用」、「第四 七月九日運用」の文字注記も伴う。長辺に八つ折り、短辺を四つ折りする形で保管され、表紙が付けられている。なお、内題等が記された最後の行に「丙寅初冬 津藩 柳楢悦 譯画」とある。すなわち、1866年に当たる。そして、本図の作者として末尾に記載された柳楢悦(1832~1891)は、No.55の「神内炮台図」を作成した関流和算家の村田恒光に学んだ。嘉永6年(1853)には師の村田とともに伊勢湾を測量している。両人とも津藩士である。柳は、幕府が同年に創立した長崎海軍伝習所の第1期生であり、オランダ人から航海術・数学を学んだことを勘案すれば、その関係で作成したと考えられ、津藩からの要請も念頭に置くべきであろう。ちなみに伝習所における伝習結果と評価されている「長崎港測量図」と本図とは微妙に異なる。彼は維新後に海軍に出仕し、航路測量に多大の尽力をなした。海軍少将を経て、貴族院議員も務めた。さらに、数学者としてもいくつかの論著を残している。なお、彼の三男の宗悦(1889~1961)は、民芸運動の提唱者として有名である。
要約 内題の「第二千四百十五号、西肥 長崎港之図」に続き「二万四千八百分一」という縮尺が示されている。長崎湾を中心に描き、その湾奥に位置する長崎の市街地は朱で着色されている。海の一面に列状に記された漢数字は、深さの注記と考えられる。「第一 六月廿六日運用」、「第二 六月廿八日運用」、「第三 七月七日運用」、「第四 七月九日運用」の文字注記も伴う。作者の柳楢悦(1832~1891)は、津藩士で関流和算家の村田恒光に学んだ測量家、軍人、数学者。貴族院議員も務めた。
キーワード 縮尺、長崎湾、方位盤、深さ
参照 川村博忠『近世絵図と測量術』古今書院(1992年)。横山伊徳「19世紀日本近海測量について」(黒田日出男、メアリ・エリザベス・ベリ、 杉本史子編『地図と絵図の政治文化史』東京大学出版会、2001年)269-344頁。横山伊徳「幕末維新期の日本沿海測量と海図作成」地図中心、第395号(2005年)。

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