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番号 | 10 |
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名前 | 摂津湊川辺図 |
読み | せっつみなとがわへんず |
サイズ(cm) | 106.8 x 58.8 |
彩色 | 手書 手彩色 |
作者 | (項目なし) |
版元 | (項目なし) |
作成日(和暦) | 江戸時代後期 |
作成日(西暦) | (項目なし) |
地域 | 神戸市兵庫区 |
解説 | 本図には西を上にした江戸時代の兵庫津(現神戸市兵庫区)が描かれている。方位でいえば南に相当する図の左側には、舌状に見える半島状のものがあるが、これは和田岬である。また、方位でいえば北に当たる図の右側には東西に川が流れているが、これは足利尊氏と新田義貞・楠木正成らが戦った「湊川の戦」で有名な湊川である。湊川は明治31年(1898)から明治34年(1901)にかけて、流路の付け替え工事がおこなわれるが、江戸時代には兵庫津の北側に河口があった。現在は人口150万人を超える神戸市の、その発展の核となったの場所は、幕末から明治時代初めにかけて開港場として造成された神戸港と外国人居留地(現神戸市中央区)であった。ただそれ以前の古代から江戸時代においては、この兵庫津であった。畿内と各地を結ぶ瀬戸内海航路の重要港であり、中世においては日宋・日明貿易で遠く中国大陸とも結びついていた。江戸時代においては尼崎藩領となっていたが、明和6年(1769)以降は幕府領となっている。兵庫津を描く絵図としては、最古のものとして元禄9年(1696)の「兵庫津絵図」があり、その後、幕末にかけて何点か現存する。本図に描かれている範囲は「兵庫津絵図」よりも広く、その後に描かれた絵図を模写したものと思われる。「兵庫津絵図」以降の兵庫図は、どの図もほとんどかわらない範囲を描いており、その範囲と本図とはほぼ一致している。図中に黄色で彩色された町屋には、東西の町名が南から「魚棚町、匠町、松屋町、鍛冶屋町、宮前町、宮内町、北宮内町」と記されているが、西国街道筋の南北の町名などは記入されていない。全体的に見ても、模写が完成しない途中段階か、極めて粗い下手な模写図で、江戸時代後期に作成されたものだろうという推測が成り立つ程度である。 |
要約 | 本図には西を上にした江戸時代の兵庫津(現神戸市兵庫区)が描かれている。方位でいえば南に相当する図の左側に、舌状にのびる和田岬がある。また、北に当たる図の右側には東西に川が流れているが、これは足利尊氏と新田義貞・楠木正成らが戦った「湊川の戦」で有名な湊川である。兵庫津を描く絵図として最古のものは元禄9年(1696)の「兵庫津絵図」で、その後、幕末にかけて何点か現存する。本図に描かれている範囲は「兵庫津絵図」よりも広く、その後に描かれた絵図を模写したものと思われる。黄色で彩色された町屋には、東西の町名が南から「魚棚町、匠町、松屋町、鍛冶屋町、宮前町、宮内町、北宮内町」と記されているが、西国街道筋の南北の町名は記入されていない。 |
キーワード | 兵庫津、和田岬、湊川、兵庫津絵図、西国街道 |
参照 | 展示会図録『よみがえる兵庫津 港湾都市の命脈をたどる』神戸市立博物館(2004年)。 |