伏見城下絵図

番号 172
名前 伏見城下絵図
読み ふしみじょうかえず
サイズ(cm) 80.1 x 67.4
彩色 手書 手彩色
作者 (項目なし)
版元 (項目なし)
作成日 (項目なし)
作成日 (項目なし)
地域 京都府 伏見
解説 本図は、豊臣氏時代の伏見城下を描いた絵図をもとに、明治期以降に模写された城下町絵図である。東を上にし、中央に伏見城が配されている。この伏見城と宇治川対岸の向島に築かれた向島城が朱で染められ、一層際だって映る。水系を青で染め、伏見城下周辺の山々や中州などは蓬色で彩色されている。また伏見城下を守護するように配置されている寺院は、鳥瞰図的に描かれている。豊臣秀吉氏時代の伏見には、全国60余州の大名達の邸宅が、城郭を中心に堀内、堀外に問わず、広大な敷地を占めて建ち並んだ。絵図中央の本丸には、石田治部少輔こと石田三成の屋敷や、葭島には加藤清正の上・下屋敷、外堀内には伊達政宗の上屋敷と、外堀外には下屋敷が確認できる。町屋は、大名屋敷と比較すると極少なく、内堀内の伏見街道(大和街道)にそって町屋があるだけである。さて、本図の本丸には豊臣政権の大臣にあたる五奉行の一人、前田玄以の屋敷がなく、また秀吉が建設した学問所の記載もない。さらに。浅野長政邸が山岡道阿弥となっている。実は、秀吉の最後の居城となった伏見城は、彼の死後、豊臣氏攻撃の拠点となり、元和9年(1623)に廃城とされた。この頃に豊臣氏時代の伏見の様子を絵図に留めようとする動きがみられた。たとえば、「豊公伏見城ノ図」がその1つである。これには「豊臣秀吉公泰平御代御旗本諸大名御屋敷之図」と付記されているが、実際には家康時代に作製されたものである。廃城後、一般の記憶が残っていた間に作製されたと考えられる。本図もこうした類の絵図を原図として模写されたものと考えられる。したがって、本丸には秀吉が建設した学問所の記載はなく、また城下の規模も半分くらいに表現され、以前あった大名屋敷の地は、民家が建ち並んでいる。豊臣氏時代に徳川家康の屋敷となった向島城には、屋敷主の名前はなく、建物の面影だけが描写されている。ただし、模写した際の誤記も多い。
要約 豊臣氏時代の伏見城下を描いた絵図をもとに、明治期以降に模写された手彩色の城下町絵図。ただし、原図は徳川家康の時代に、豊臣氏時代の伏見の様子を考証して作製された絵図であると推察。したがって、大名屋敷名には、両時代の大名が混在する。模写した際の誤記も多い。東を上にし、中央には伏見城が配されている。伏見街道沿いに町屋がみられるが、城下の大半は大名屋敷で占められている。
キーワード 豊臣秀吉、考証図、模写図、城下町
参照 大塚隆「近世伏見の地図史概観(一)」月刊古地図研究、第87号(1977年)。大塚隆「近世伏見の地図史概観(二)」月刊古地図研究、第88号(1977年)。加藤次郎『伏見桃山の文化史』自家版(1953年)。林屋辰三郎責任編集『京都の歴史 桃山の開花』學藝書林(1969年)。伏見町役場編輯『御大禮記念京都府伏見町誌』伏見町(1929年)。

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