贄寄夜燈前面図(測量考略記)

番号 52
名前 贄寄夜燈前面図(測量考略記)
読み にえさきやとうぜんめんず(そくりょうこうりゃくき)
サイズ(cm) 55.5 x 18.0
彩色 手書 手彩色
作者 村田恒光 測量
版元 (項目なし)
作成日 安政2年7月
作成日 1855年
地域 三重県津市
解説 本図は、岩田川(三重県津市)の河口に設けられた贄寄(にえさき)常夜灯の周辺について、津藩の和算家村田恒光によって作製された内容にもとづき、安政2年に模写された測量図である。海岸線の図と、測量結果を記載した表から成る。図は、東を上にし、横長に描かれている。三重県側の伊勢湾の沿岸を北は塔世川(安濃川)から南は松崎浦の雲出川までを収める。本図には「測量考略記」と内題があり、「村田恒光先生測  柳楢悦 池田□徳 茅原教治 同校」とつづく。村田恒光とは、津藩士で、幕末に活躍した和算家である。江戸で和算や測量術を学ぶ。江戸では、関流の和算を継ぐ流派として、江戸の神田で数学道場を主宰していた長谷川寛に師事する。本図に記されている柳楢悦もその一人である。津に戻った村田は津藩校有造館の天文算学の教師になった。のち藩から派遣されて、長崎海軍伝習所で西洋数学や測量術を学んだ。村田は、天保7年(1835)に『算法地方指南』(長谷川寛と共著)、嘉永6年(1853)に『六分円器量地手引草』といった測量術書を著す。これらは田畑の反別、高取、検見などの測量法を簡潔に解いた実用的なもので、一般にひろく読まれた。村田は嘉永6年に贄崎から、塔世川口(現安濃川)、辛洲(現香良洲)、伊倉津、一本松(雲出川河口)までの距離と方位を計測した。この数値をもとに、贄崎から測量目標となった事物や山河35地点までの距離と、それらの地点から上記4地点までの方位(度分)を算出している。それらの結果が、余白に表形式で書き込まれている。贄崎常夜灯から各目標地点までは、方位線が朱筆でのび、方位と距離が添えられている。測量地点には、三重県の伊勢市と鳥羽市をわける朝熊岳や長野県の大嶽山などが選定され、これらの遠望図が余白に描かれている。贄崎常夜灯は、津藩が船を安全に港に誘導するため、文化6年(1809)に岩田川河口の北岸に設置されたものである。それまでの贄崎の辺りは、海岸の砂地に、わずかに納屋数棟が寂しく点在しているだけであったが、常夜灯が設置されてからは、次第に民家が建ち初めてにぎわうようになっていった。嘉永7年(1854)、常夜灯は岩田川河口のさらに北側に移され、建物も改造された。村田の測量の時期は、この前年にあたる。
要約 岩田川河口に設けられた贄寄(にえさき)常夜灯の周辺について、津藩の和算家村田恒光によって作製された内容にもとづき、安政2年に模写された測量図。海岸線の図と、測量結果を記載した表から成る。村田は嘉永6年に贄崎から、塔世川口(現安濃川)、辛洲(現香良洲)、伊倉津、一本松(雲出川河口)までの距離と方位を計測。この数値をもとに、贄崎から測量目標となった事物や山河35地点までの距離と、それらの地点から上記4地点までの方位(度分)を算出した。
キーワード 測量図、測量考略記、村田恒光、贄寄夜燈、嘉永6年、津
参照 川村博忠『近世絵図と測量術』古今書院(1992年)。日本学士院編『明治前日本数学史』全5巻、岩波書店(1954年)。佐藤健一ほか『和算史年表』、東洋書店(2002年)。米澤誠「連載和算資料の電子化(9):シビルエンジニアとしての和算家」東北大学附属図書館報木這子、第30巻2号(2005年)。

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